misakoinSGの日記

From what I see and learn from Singapore…シンガポールで考えたこと徒然

星港便り第13回「ワンコミュニティへの試み」

 (2016年9月23日記)

 

 建国51周年を迎えた8月、リー・シェンロン首相は所信表明演説中に目まいをおこして中断して退席したものの、1時間後に復帰して演説を続けた。シンガポールは多民族・多宗教・多言語国家だから、年に一度の国政方針を語るのに、首相はまずは中国語で、その次にマレー語で、最後に英語で全てをこなすには4時間弱かかる。通訳なし、首相自らの独壇場である。今年は3時間しゃべり続けたところで、脱水症状を起こしたというわけである。過酷なフルマラソンに参加しているアスリートのごとくである。この演説で毎年のよう繰り返されるのが、民族間の調和であり、国家の統合である。他人を受け入れ思いやろうという呼びかけは、また周辺国にも忍び寄るテロの恐怖に備えるためにも、さらに団結力を求めるメッセージ性が強まったように思える。

 550万人の総人口のうち、シンガポール生まれの真水のシンガポール人は約6割。出生率は日本より低いし、ヴィザの更新や新移民の受け入れが厳しくなったこともあり、人口増加率はこの10年では最低の2%となった。それでも在来の多民族同士の調和も、また旧市民と新市民の融和のためにも、政府も積極的にコミュニティ単位での取り組みを強化している。この国には16の比例選挙区(GRC)があるが、各選挙区での「ワン・コミュニティ・フィエスタ」という試みが始まった。

 

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 過日、マレーシアとの国境に近いGRCでその第一弾が開催され、我々大使館にも、日本文化発信の市民向けの活動に対する要請があり、参加してきた。主催者は、当地で草の根コミュニティ活動を統括する人民協会(PA)、そしてその一部のINCs(インテグレーション&ナチュラライゼーション・チャンピオン)である。まさにこの地元で永年暮らしてきた市民と、移民で新しくシンガポール市民となった人たちとの融合を助ける組織である。そこで全員に配られるお土産バッグには、「包括的で調和のあるコミュニティのために望まれる6つの価値観」が印刷されていて、「受容(アクセプタンス):お互いの文化、価値観、生活習慣を大切にしよう」「思いやり(コンパッション):毎日小さな親切を態度で示そう」等、具体的だ。

 

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 独立記念日には毎年、国民統合をテーマにした楽曲が発表され、公式な場で歌われるだけでなく、若者にも人気のグループがポップなリズムでカバーしたYouTubeがヒットするようなお国柄である。アメリカ人と同様に、シンガポール人も小学生の頃から忠誠の誓いをあらゆる機会にしている。こういう光景を目にする時、まだ当分日本では見られない現象だろうなあと、彼我の違いを再認識するのである。

星港便り第12回「新幹線にかける夢」

シンガポールから比べると国土もずっと広い日本が、南北に細長く伸びた島々の多様な自然に恵まれた顔を提供してくれるので、シンガポール人の日本への興味は尽きない。

 

 昨年3月に開業した北陸新幹線のおかげで、東京から金沢まで2時間半となった。カニの大好きなシンガポール人の知人が大喜びし、開設初日にわざわざ新幹線に乗るために渡日していた。

 途中駅の長野は、いわゆる「ストロー現象」で、東京ベースの企業の支店は遠のいてしまったが、逆に遠い金沢に新しく支社を開設した企業が、この1年間で50社に上るという。
 先日、シンガポールに来られた石川県知事の発言からも、その勢いを感じた。またシンガポールに初の地方銀行の支店が開設したのも、石川県からである。石川県は、一県のみならず日本海地域全体が、シンガポールをハブとする東南アジア地域に進出してくるのだという意気込みである。シンガポール一国では市場は小さい。対地域での攻めの姿勢が必然なのであろう。

 私はオリンピック、東京タワー、新幹線と3点セットで刷り込みされている世代の東京生まれの東京育ち。だから、新幹線開設には、上昇気流の匂いを感じるのである。
1  シンガポールとマレーシア両政府は7月19日に、今から10年後、2026年の開業を目指して高速鉄道建設の合意をした。クアラルンプールからシンガポールまで、たった90分で結ぶというのである。これが開通すれば、全線の95%はマレー半島、つまりマレーシアの国土を通過し、残りのたった5%がシンガポール国土、しかも多分それは地下を走行することになるのだろう。建設にかかるコストは、これでちょうど良い均衡になるのかもしれない。

ナショナル・パークが管理する「ジュロン・レーク・パークス」内に中国風と日本風の公園がある。この東側に新幹線のシンガポール側の終着駅が建設予定なので、この辺り一帯が再開発の予定になっている

ナショナル・パークが管理する「ジュロン・レーク・パークス」内に中国風と日本風の公園がある。この東側に新幹線のシンガポール側の終着駅が建設予定なので、この辺り一帯が再開発の予定になっている

シンガポールにおけるターミナル駅は、現在の市中繁華街とは一寸距離のある国境側の町、ジュロンに位置する。政府はいち早く10年後を見越して、再開発計画にとりかかっている。
 ジュロンの歴史ある二つの公園、ジャパン・ガーデンとチャイナ・ガーデンもまたこの再開発の対象らしい。この日本庭園は広大な敷地のなか、池もあれば、天皇両陛下が皇太子時代にお手植えされたシュロの木もある。これら歴史ある文化財を保全しながらも、新しい町づくりをしようとしている。市中へと通じる地下鉄建設をはじめ、今なお、次から次へと新しい都市計画に果敢に取り組むシンガポールに、われわれ日本人も大いにビジネス・チャンスを見いだしていくのである。
日本政府が7月22日にシンガポールで実施した「新幹線シンポジウム」は定員270名を超える集客があり、関心の高さがうかがわれた。臨場感あふれる運転のシミュレーション装置も

日本政府が7月22日にシンガポールで実施した「新幹線シンポジウム」は定員270名を超える集客があり、関心の高さがうかがわれた。臨場感あふれる運転のシミュレーション装置も

 

星港便り第11回「ハローキティの人気の秘密は」

 いまさらだが、ハローキティである。シンガポールに着任してすぐ抱いた疑問は、いったい何が彼らをこれほどまでに魅惑しているのか、というものだった。地下鉄やバスの共通パスも、昨年の建国50周年で郵便局から発売されたキャラクター人形も、キティだった。後者においては、シンガポールの多文化を表現すべく、マレー系、インド系、中華系の衣装をまとったものに、徴兵制のあるこの国らしく、ナショナル・サービスの軍服をまとったキティまで発売されていた。

 呉偉明準教授(香港中文大学)の論考によると、ハローキティがシンガポールに来たのは、日本で発表されて早くも2年後の1976年、つまり今から40年も前のことである。しかし、80年代から90年代まではその人気にも落ち込みがあり、その後、2000年早々に大きな波がやってきたという。

 マクドナルドが「マックキティ」としてバーガーの購入と同時に得られる景品が、ミレニアムを迎えたシンガポールにおいて、「Kiasuキアス(シンガポール英語で「稀少なもの」という意味)」にめっぽう弱いシンガポール人が熱狂し、国内にある114店舗のマクドナルドに人口の8%にあたる30万人が殺到したという。

2015年のシンガポール建国50周年記念で郵便局から発売されたキティ人形と、地下鉄・バスの共通パス(手前2枚)

2015年のシンガポール建国50周年記念で郵便局から発売されたキティ人形と、地下鉄・バスの共通パス(手前2枚)

 店頭に並ぶシンガポール人の混乱ぶりは、割り込んだ客同士の殴り合いにまで発展し、BBCにまで放送され、リー・シェンロン副首相(現・首相)をして、「なにもキティのために、大の大人が喧嘩までする必要はなかろう」と叱咤するに至ったという。
 これほどまでに日本のキャラクターが愛されているのは嬉しい限りだが、果たしてこれを日本のものと今のシンガポール人は意識しているのだろうか。つい先日チャンギー国際空港のターミナル3に、「キティ・カフェ」が開店したということで、また前日から長蛇の列ができたという報道を目にした。そこでしか購入できないキティが、早くもオンラインでプレミア付きで高値で売買されているらしい。
 それで、あらためて前述の呉教授の論文を読み直したわけだ。中華系、マレー系、インド系が共生するこの国で、もっぱら「かわいい」文化に反応するのは中華系のみ、しかも女子が圧倒的という分析であった。シンガポールにおける商品としてのキティは、香港や台湾製が主だそうで、中華系の琴線に触れるキャラクター造りに成功しているといったことも関係あるのかもしれない。
 さて、この週末には「ポケモン・カフェ」が開店。前日の朝6時から並んだのは、22歳と25歳の中華系男子2人だった。彼らのハンサムで屈託のない笑顔をみて、また私の驚嘆のため息が混じった好奇心が、ふつふつと沸いてくるのである。

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星港便り第10回「タトル出版をご存知ですか?」

 高校生の頃から神保町の洋書店を覗くのが好きだったので、タトル出版、つまりチャールズ・E・タトルの名前には親しみをもっていた。

 タトルは第2次大戦後の占領期の東京で、マッカーサー元帥直属の部隊に所属していた。バーモント州の実家は五世代にわたり存続している歴史ある出版社で、ハーバード大学卒業のタトルの東京での任務は、国会図書館の復興だったという。

 

 チャールズ・E・タトルの写真


チャールズ・E・タトルの写真

 ほどなく日本の出版業の復興に携わることになった彼が、許可を得て占領期に興した会社が、タトル出版の元である。当初は占領軍の出版サポート業務で、その後アメリカのペーパーバックを日本に輸入し、アメリカ文化の日本への紹介に資していたのが、占領終了後の1952年には、日本文化や日本語教育の本を英語で出版するようになったのである。
 日本についての情報を海外へ発信していくには、英語による出版が重要であるにも関わらず、日本でそれを担う人たちの不在は長く続いている。ところがシンガポールに来て、私がその懐かしい名前タトルを聞くまで、時間はかからなかった。ある集まりで出会ったエリックとクリスチーナの夫妻が、「君は日本人ならタトルの名前を知っているか」と聞いてきたのである。
 エリックはチャールズ・E・タトルの妹の息子、つまり甥っ子だというのだ。エリックは父親がインドネシア人のハーフで、姓名のウィーはインドネシア語で「黄色」という意味という。
タトル出版CEOのエリック・ウィー氏(左奥)と隣がクリスチーナ夫人、最近タトル出版で日本の新版画を使ったぬりえの本を出版した作者アンドリュー・ヴァイガーさん(右奥)と伊藤実佐子さん

タトル出版CEOのエリック・ウィー氏(左奥)と隣がクリスチーナ夫人、最近タトル出版で日本の新版画を使ったぬりえの本を出版した作者アンドリュー・ヴァイガーさん(右奥)と私

 高校からアメリカで過ごし、大学はカリフォルニア大学バークレーに進み東南アジア研究を専攻。血がそうさせたのか大学時代から出版に携わり、88年にペリプラス出版という会社をバークレーで立ち上げ、現在はシンガポールに拠点を移している。叔父のチャールズが「洋の東西を近づける」をモットーに、『古事記』『源氏物語』に始まり日本文化を中心に出版してきたように、エリックもアジアの生活文化を中心とした英文出版を専門としている。
 93年にチャールズ・E・タトルが他界した後には、しばらく他社に合併されていたものの、97年にエリックはタトル出版を買収してペリプラス・グループに合併し、これによって米国、シンガポール、東京、マレーシア、インドネシアに子会社を保有するアジアで最大の英語出版・販売会社となったのである。
 日本には暮らしたことのないエリック夫妻だが、今では同社では日本文化に関する出版数が最大だという。とうとう北海道ニセコに別荘を購入するほどの日本好きのこの夫妻に、さらに多くの良質な日本関連本を出し続けてもらいたいものである。

 

星港便り第9回「海外旅行は即売会で買う?」

この旅行即売会は、一般消費者向けで、業者対象ではない。すでに年末の「旅」を買いにくる客のまなざしは真剣だ

この旅行即売会は、一般消費者向けで、業者対象ではない。すでに年末の「旅」を買いにくる客のまなざしは真剣だ


 世界地図で描かれるシンガポールは、赤いひとつの点にすぎない。その国土面積は東京都23区相当の小ささだ。チャンギ国際空港も、市内からタクシーで25分。それぞれが広大な3つのターミナルは、機能的にトラムで結ばれている。第4ターミナルも現在建設中だ。世界のハブとして、100を超えるエアラインが、320都市を結んで発着している。LAXの年間旅客数7070万人に対し、シンガポールは5410万人という。

 

 狭い島国だからいざ旅行となれば、いきおい海外旅行となる。私も週末をはさんでつい最近インドネシアのバリ島を旅したが、飛行機代は往復で260シンガポールドル(約186米ドル)、片道2時間半。タイのバンコクは同様の飛行時間でさらにその半額だ。時差もなければ、空港に行くまでの渋滞も無く、旅をすることが苦にならない。

 「ドラえもん」と一緒に写真を撮るコーナーには、長蛇の列


「ドラえもん」と一緒に写真を撮るコーナーには、長蛇の列

 旅行といえば、このインターネット時代、オンラインで予約したり旅行代理店で購入したりするものだと思っていたら、シンガポールならではの商慣習があった。何事につけコンベンション企画が上手なこの国らしく、今年は大規模な二つの「旅行即売会」が競い合って開催されている。そのうちの一つ、後発組の「トラベル・レボリューション」がマリナベイサンズのコンベンション・センターで3日間にわたり開催されていたので、視察してきた。
 これまでブックフェアや学会、各国物産展などは私も経験してきたが、売り物が「旅」というのは想像もつかなかった。各国の大手旅行企画会社が趣向をこらしたブースを設置している。一般消費者向けの即売会だから、家族連れが、巨大なパネルや映像を駆使しての各業者の売り込み合戦のなか、あちこち比較検討をしている。
 昨年、日本を訪れたシンガポール人は22万人、70%がリピーターという統計がある。今年、建国の父リー・クアンユーを弔った現首相のリー・シェンロンが、家族で夏休みを北海道で過ごしたのは、初めてのことではないらしい。自らのフェイスブックに美しい写真を何枚もアップして、まるで日本の観光大使になっていただいたようであった。日本コーナーはシンガポールでは珍重がられる雪のかまくら、着ぐるみの「ドラえもん」が登場して、長蛇の列ができるなど大人気。
 東北ブースの人気も高く、東北での宿泊客は前年比2・5倍以上とのこと。日本に「地方」の魅力がそれぞれにあることを、狭い国土に住むシンガポール人たちは驚異の目で見ている。多様な魅力を持つ日本、そのこと自体が宝ものであることを、こういう機会に、私たち日本人が再認識させてもらうのである。
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星港便り第8回「アメリカン・スクールでの日本語教育」

ここシンガポールで最もアメリカらしい風景に接することができる場所のひとつに、アメリカン・スクールがある。幼稚園児から高校生まで、4千人の生徒が100台のスクールバスで通学してきている。

 国境の町として知られるウッドランドは、橋を渡ればすぐマレーシアである。この学校は、米国外に存在するアメリカン・スクールのなかで、最大規模のものという。
 生徒たちの国籍は、およそ70カ国。全体のうち米国パスポートを持っている米国人が約60%。シンガポール人も5〜6%、最近は韓国人が増えているようで同じ程度の5〜6%を占め、日本人も3〜4%在籍しているようだ。校舎内にはいかにもアメリカらしいキャンティーン(食堂)があり、また敷地内にはアメリカン・フットボール場、野球場(まったく野球に対する興味がない当地では極めて珍しい)、サッカー場などが完備されている。創立はシンガポール独立直前の1956年だから、来年で60周年を迎えることになる。
 先日、高校で日本語学習者のうち7人がナショナル・オナー・ソサエティ(NHS)への入会が認められたという知らせを受け、そのセレモニーに出席してきた。

シンガポール・アメリカン・スクールは幼稚園から高校まで4000人の生徒が通う巨大なキャンパスだ

シンガポール・アメリカン・スクールは幼稚園から高校まで4000人の生徒が通う巨大なキャンパスだ

 アメリカで子どもを高校に通わせていると、語学のみならず、数学や英語など各教科に加えて、奉仕のクラスでの成績優秀者が入会できるNHSがあるのはご存知と思う。
 全教科平均でGPA3・0(4・0満点)を取得し、さらに特定の教科で3・5をとった生徒のみに入会が許される。与えられる機会は均等でも、出来る生徒にはどんどん先に進ませて評価するAP(アドバンス・プレイスメント)と同様、NHSは大学進学の際には優位に評価されるという。
 アメリカにおける日本語のNHSは、コロラド州立大学ボルダー校に事務局がある全米日本語教育学会(AATJ)がその認定団体となっている。聞くと、今年は全米から28州、151校の2180人の生徒にJNHSへの入会が許されたという。
 その中の7人に、今回シンガポール・アメリカン・スクールの高校生が選ばれたのである。海外に数多くあるアメリカン・スクールのなかでも、初めてのケースであり、より日本語をしゃべる環境にあると思われる東京のアメリカン・スクールでもJNHSには未入会のようだから、これはまったくの快挙である。
 せっかくシンガポール在住なのだからと、中国語を選択する生徒が多いアメリカン・スクールで、日本語を選んでくれた優秀な生徒たちは、将来どの地に暮らしても、必ずやリーダー的存在になるものと、私の期待は高いのである。

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星港便り第7回「日本人墓地公苑に眠る人々」

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ハイビスカスが咲き乱れる「日本人墓地公園」。日本人学校の生徒をはじめ多くのボランティアが清掃に参加する

 「掃苔(そうたい)」という言葉を知ったのは、社会人になって何年も経ってからである。墓石についた苔を掃き清めるということから、墓参りをすることが掃苔であり、墓苑を訪ねて有名・無名の墓石を読みながらその人物の生前を偲び、記録を綴ったものが「掃苔録」というのだと、それを趣味としている上司に教わった。

 

 

朝日新聞ロシア特派員だった二葉亭四迷が帰国途中の船上で客死。火葬がシンガポールで行われ墓石が建っている

朝日新聞ロシア特派員だった二葉亭四迷が帰国途中の船上で客死。火葬がシンガポールで行われ記念碑が建っている

 シンガポールに赴任して1カ月もたたない頃、国立大学で初めて北米以外で開催された全米アジア学会(AAS)に参加した。その際、文化遺産と伝統文化を語るセッションに参加した旧知の米国人文化人類学者と一緒に、好奇心からこの町の中華系墓地を訪ねてみようという話になった。ちょうど「ハングリー・ゴースト・マンス」といってお盆にあたり、魂が町中に徘徊している時期である。嫌がるタクシーの運転手を拝み倒して連れて行ってもらった中華系墓地だが、着いたとたんに、今度はわれわれが薄気味悪くなって結局タクシーからは降りず、そのまま市内に戻ってきたほろ苦い思いを、いま告白する。なぜかといえば、そこで見たのは、「掘り返し作業中」の立て看板のついた巨大な白いテントだったからである。
 シンガポールは国土が狭く土地が貴重だ。かつては町のあちこちにあった墓地が掘り返され、その上にいくつもの高層建築ビルが並んでいる。赤い石造りのビルは、かつて墓地だったことを示しているという。
戦没者慰霊碑(左から「作業隊殉職者之碑」「陸海軍人軍虜留魂之碑」「殉難烈士之碑」とある)

戦没者慰霊碑(左から「作業隊殉職者之碑」「陸海軍人軍虜留魂之碑」「殉難烈士之碑」とある)

 そんな中、1891年に開基された「日本人共有墓地」が明治・大正・昭和を経て910基の墓石を有したまま現状維持されているのは奇跡に近い。それを可能にしたのは、今年創立百年を迎える「シンガポール日本人会」の尽力である。ここを訪れると、先の中華系墓地の野趣溢れる雰囲気とは違い、文字通り奇麗な公園なのである。新しい墓はすでに受け入れない「公園」としたことによって、町の墓地整地の条例に触れず、残存を可能にしたのである。先祖でもなく、縁もないが、日本人の墓石であるがために、大切に残し、常に掃き清め公園として人々が集う場所として守っているのだという心意気が、同じ日本人として嬉しい。
 しかし、この墓地の成り立ちには物悲しい歴史がある。910基のうちの大半が「からゆきさん」なのである。また、第二次大戦後に処刑された戦犯たち、戦後の重労働に従事し殉職した作業隊たちには、台湾や朝鮮半島からの同胞も含まれているという。一方、ゴム園経営やマレー鉱山で大成功した大立者も眠っていれば、ベンガル海上で客死した二葉亭四迷の記念碑もあり、興味は尽きない。
 この町で掃苔録を付け始めてみようかと、考え始めているこのごろである。