misakoinSGの日記

From what I see and learn from Singapore…シンガポールで考えたこと徒然

星港便り第7回「日本人墓地公苑に眠る人々」

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ハイビスカスが咲き乱れる「日本人墓地公園」。日本人学校の生徒をはじめ多くのボランティアが清掃に参加する

 「掃苔(そうたい)」という言葉を知ったのは、社会人になって何年も経ってからである。墓石についた苔を掃き清めるということから、墓参りをすることが掃苔であり、墓苑を訪ねて有名・無名の墓石を読みながらその人物の生前を偲び、記録を綴ったものが「掃苔録」というのだと、それを趣味としている上司に教わった。

 

 

朝日新聞ロシア特派員だった二葉亭四迷が帰国途中の船上で客死。火葬がシンガポールで行われ墓石が建っている

朝日新聞ロシア特派員だった二葉亭四迷が帰国途中の船上で客死。火葬がシンガポールで行われ記念碑が建っている

 シンガポールに赴任して1カ月もたたない頃、国立大学で初めて北米以外で開催された全米アジア学会(AAS)に参加した。その際、文化遺産と伝統文化を語るセッションに参加した旧知の米国人文化人類学者と一緒に、好奇心からこの町の中華系墓地を訪ねてみようという話になった。ちょうど「ハングリー・ゴースト・マンス」といってお盆にあたり、魂が町中に徘徊している時期である。嫌がるタクシーの運転手を拝み倒して連れて行ってもらった中華系墓地だが、着いたとたんに、今度はわれわれが薄気味悪くなって結局タクシーからは降りず、そのまま市内に戻ってきたほろ苦い思いを、いま告白する。なぜかといえば、そこで見たのは、「掘り返し作業中」の立て看板のついた巨大な白いテントだったからである。
 シンガポールは国土が狭く土地が貴重だ。かつては町のあちこちにあった墓地が掘り返され、その上にいくつもの高層建築ビルが並んでいる。赤い石造りのビルは、かつて墓地だったことを示しているという。
戦没者慰霊碑(左から「作業隊殉職者之碑」「陸海軍人軍虜留魂之碑」「殉難烈士之碑」とある)

戦没者慰霊碑(左から「作業隊殉職者之碑」「陸海軍人軍虜留魂之碑」「殉難烈士之碑」とある)

 そんな中、1891年に開基された「日本人共有墓地」が明治・大正・昭和を経て910基の墓石を有したまま現状維持されているのは奇跡に近い。それを可能にしたのは、今年創立百年を迎える「シンガポール日本人会」の尽力である。ここを訪れると、先の中華系墓地の野趣溢れる雰囲気とは違い、文字通り奇麗な公園なのである。新しい墓はすでに受け入れない「公園」としたことによって、町の墓地整地の条例に触れず、残存を可能にしたのである。先祖でもなく、縁もないが、日本人の墓石であるがために、大切に残し、常に掃き清め公園として人々が集う場所として守っているのだという心意気が、同じ日本人として嬉しい。
 しかし、この墓地の成り立ちには物悲しい歴史がある。910基のうちの大半が「からゆきさん」なのである。また、第二次大戦後に処刑された戦犯たち、戦後の重労働に従事し殉職した作業隊たちには、台湾や朝鮮半島からの同胞も含まれているという。一方、ゴム園経営やマレー鉱山で大成功した大立者も眠っていれば、ベンガル海上で客死した二葉亭四迷の記念碑もあり、興味は尽きない。
 この町で掃苔録を付け始めてみようかと、考え始めているこのごろである。